マルヤナギ創業の歴史②
柳本一夫と小倉屋の出会い
昭和23年秋、小倉屋昆布創業者松原久右衛門と同じ淡路島三原郡出身の柳本一夫は、御影師範学校(現神戸大学教育学部)を中退して実家に戻っていました。その時、13年前にすでに亡くなっていた母の姉の訪問を受けたのです。
この叔母は、小倉屋居内の創業者である居内万蔵の2代目居内楢太郎に嫁いでおり、3代目にあたる息子の永吉郎さんの手伝いに大阪に来ないかと誘いに来てくれたのでした。
柳本一夫は、これ幸いと二つ返事で了解しました。これが昆布の小倉屋との出会いでした。入門しやがてのれん分けしていただける、自分で商売をしたいという小さい時からの夢が実現できる、という思いに胸を躍らせ人生の新たなスタートを切ったのです。
よく働きよく学んで迎えた創業
尼崎出屋敷にある店に入店した柳本一夫の仕事は、店頭での販売と店の奥で塩昆布を炊くことでした。店主の永吉郎さんを手伝って懸命に働きました。そして、永吉郎さんも感心する早業の包丁さばきは、周りの人がびっくりするほどだったのです。1年後には大阪福島に新設された工場の責任者となって大阪へ卸売りを始めました。
その後、1年半の間に売上げは40倍にまで伸びていきました。小さい釜は、やがて大釜に変わり、配達も普通の自転車から、リムの太い大荷物を運搬するための大型自転車に変わりました。この大型自転車では、一度に1斗タル(約15kg)を12タルも積んで運べるように腕を磨いていったので、得意先の人からは「トラックさん」が来たと面白おかしく呼んでもらえるほどになりました。
工場のメンバーは、6~7人に増えました。みんな中学出の若造ばかりでしたが、品質と生産性は天下一品、親方から言われたことを素直にきちんとやり続けることで、小倉屋の看板に恥じない老舗の味作りができていました。
この店にお世話になって3年後、事業拡張の功績を認めていただいて、神戸市灘区の畑原市場でのれん分けを許されることになりました。いよいよ独立です。小倉屋居内商店で経験し得たのは、昆布を扱う技術だけではありませんでした。売上の大きな発展にともない部下が増えるにしたがって、実に多くのことが身についていきました。世の為・人の為に貢献しない限り利益はついてこない、ということも身を持って学んできたのです。そして昭和26年12月26日、マルヤナギ小倉屋は創業の日を迎えました。